学校の先生も様々だなぁ、と思ったお話


僕の妻は教員だ。英語の先生をしている。


僕が言うのもなんだけど、彼女は人気の先生だ。生徒や保護者からとても頼りにされている。


先生だから当たり前といえば当たり前だけど、教えるのも上手で、指導しているクラスが他のクラスと平均点が違いすぎて怒られることもあったという。もちろんズルしているわけではない。「先生に教わって英語が楽しくなった!」と英語の先生を目指す教え子もいるそうだ。


話を聞けば、答案や小テストの丸付けも細かくコメントも的確で、その内容は英語のことだけに留まらない。字や考え方や日々のコミュニケーションの内容にも触れる。その時間のかけ方は、一教育者として尊敬の域だ。


生徒指導も得意。怒ると怖いがしっかりフォローもする。


行事も、文化祭と体育祭と生徒会選挙を仕切っている。「別に自分からやりたいって言ったわけじゃないんだけど、これだけ見るとお祭り女みたいね」と冗談っぽく笑っているが、大したものだと思う。


もちろん部活もデフォルトだ。放課後だけでなく、土日もやたら多い(と感じる)大会で灼熱の太陽と戦っている。


朝は毎日大体5時台起き。行事前なんかは僕よりも帰りが遅くなることもある。実質、時間的には僕の二倍以上働いていると言っても過言ではない。


帰ってきてもたまに仕事をしている。テストの内容を考えたり、授業の準備をしたり。


大変だ。


でも、僕が親だったら、彼女のような先生に子どもを預けたいと思う。だから、彼女のような素敵な先生たちが(彼女によればすごい先生方はいっぱいいるらしい)、もっともっと気持ちよく働ける学校現場になればいいなと、誠に勝手ながら思っている。




なんて、ここで終わってしまってはただの身内自慢になってしまう。今日の本題はここからだ。


よく塾の先生をやっていると生徒からも「学校は敵でしょ?」みたいに訊かれることがあるけれど、前述の通り、僕はどちらかと言うと学校の先生を仲間だと思っている。


仲間というと語弊があるかな。もうちょっとわかりやすく言えば、同志だ。同じ子どもたちの未来の幸せを願う同志。日々日々一緒に頑張っている教育者。


だからこそ、時に同志として、尊敬や嫉妬や「おいおいそれは違うんじゃないの」という念を抱くこともある。


誤解のないように書いておくが、それは「学校の先生だから」ではなく、「塾の先生」にも「学校の先生」にも色んな人がいること前提での話だ。それはそうである。医者だから誰もが尊敬できるわけではないし、無職の人でも素晴らしい人はいる。


それでも「学校の先生」には世間の非難が集中しやすい。ちょっと可哀想だけど、そこには世間からの先生たちに対する「子どもたちに一番身近で接する大人として、カッコイイ大人であろうとして欲しい」という願いが込められていると思う。


たとえば先日、いつもツイッターなどでお世話になっている『岩沢学院』の学院長(言わずもがなすごい先生である)岩澤先生のブログにこんなことが書かれていて、話題になっていた。


記事によれば、夏休み前に出したテスト範囲と夏休み明けに出したテスト範囲が大幅に違っていたということ。その他にもおかしいことは色々あるが、その詳細はぜひブログをご覧いただきたい。


もちろんもちろん、その件について当事者でもないから事実はわからないし、今回のブログでその見知らぬ先生を責めるつもりはまったくない。事実だとしても、そこには岩澤先生のような素晴らしい大人がいらっしゃるので心配もしていない。


ここでは「夏前に間違ったテスト範囲を出して、夏休み明けに訂正し、なおかつ謝罪も特別な措置もないという行動」がもしも実際にあったとして、その「問題行動」にフォーカスを当てて話を進めていきたい。罪を憎んで人を憎まず、という感じだ。


その行動は、教育者の仲間として、同志として、いやいや人として、非常に残念な行動である。決して範囲や表記のミスが残念なのではない。ミスは誰にでもある。僕が「うーん」となるのは、その後の姿勢だ。上記の表記で言えば「なおかつ謝罪も特別な措置もない」の部分である。


「地理はテスト範囲にはならないけど受験勉強になるんだからいいでしょ」という考えが裏にはあるのかもしれないし、他にもその行動の陰にどんな考えがあるのかはわからない。


でも、これが一般社会だったらどうだろう。予備校だったら?会社だったら?世の中だったら?大人の世界の話だったらどうだろう。


1ヶ月前から出ていた予備校のテストの範囲が1週間前に大幅に変更になったら、その講師の信用はガタ落ちだろう。アンケートは最悪になって、雇用にも影響するに違いない。


ある企業で「この資料しっかり用意しておいて」と言われた部下がせっせとその資料を用意していたのに、いざ本番前に「あ、やっぱり違った。こっちの資料だった。準備よろしく」と謝罪の言葉もなく指示されたら、その上司が尊敬されることはきっともうない。しかもそれが人生に関わる大きなプレゼン前ならなおさらだ。


旅行だってレストランだって、一日前のキャンセルにはお金がかかる(ところもある)。それは準備に対して支払うお金だ。準備していたモノや労力や、時間に対して支払うものだ。


そう、時間もコストである。「生徒たちが準備していた時間」はもう戻らない。その準備に対しての措置はあったのか。謝罪はあったのか。そこが個人的にはすごくモヤモヤする。


子どもたちが大人になって今回と同じようなことをした時に、「おいおい」とならないか。そうなるような行動をもし僕ら大人がしてしまったなら、「これはよくないことなんだ。迷惑をかけてしまってすまない」とはっきり伝えるべきではないか。


人は間違える。ミスは誰にでもある。大事なのはその後。カッコイイ大人なら、子どもたちがなってほしい大人なら、どう対応するか。子どものうちにそれを身をもって体験することは、大切な重要な教育になる。僕自身も、この行動を反面教師にして、気を付けていきたいと思う。


なんて一人で勝手に珍しく考えていたら、こんなツイートを見つけた。

この担任の先生は、すごい先生だ。


ただするだけでも、丸付けの労力は半端ない。でも、そこからわかることは、ただの正解不正解以上のことがある。生徒の性格や課題や学習特性、今後の指導に役立つもの、役立たつかどうかわからないけど大切なもの。だから、いい先生は丸付けに時間をかける。


そして、「素敵な丸付け」は、何かを汲み取るだけでなく、生徒に何かを与えもする。気付きだったり、モチベーションだったり、勇気だったり。


それはまさしく、丸付けを通したコミュニケーションだ。


この素晴らしい先生の素晴らしい取組みは、生徒の姿勢を変えていく。勉強を楽しくさせる。知識に対して、前のめりにさせる。


そして、いつかこの先生に習った生徒が先生になった時、同じ取り組みをしようと思ったなら、それが実行されて笑顔になる生徒や保護者が増えたなら、それこそ素晴らしい教育じゃないか。


僕も見習って、指導に役立てていきたい。


ね、学校の先生も様々。


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良いか悪いかは置いといて、こういう情報が一気に拡散する時代になりましたね。

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勉強犬

「第二の家」学習アドバイザー。
世界中に「第二の家」=「子どもたちの生きる力を育てる場所」を作ろうと画策中。過去に3000人以上の生徒の個別指導経験を持つ。元広告営業犬。学生時代は個別指導塾の講師。大手個別指導塾の教室長(神奈川No,1の教室に!)・エリアマネージャーを経て、2015年ネット上で「第二の家」HOME個別指導塾を開設。

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