「…で、いい加減私がここに呼ばれた理由を教えてもらいましょうか」
刑事・勉強犬男の口調からは苛立ちが感じとれた。
ここは警視庁内部の一室。机と椅子があるだけの無機質な部屋。
勉強犬男がこの部屋に無理やり呼ばれて、もう30分以上が経過している。
憮然とした表情で座る勉強犬男の前には、眼鏡にスーツの男二人が仁王立ちしながら、
「すみません、もうしばらくお待ち下さい」を繰り返している。
「まるで機械仕掛けだな。まったくお役所仕事は融通がきかなくて困る」
勉強犬男が皮肉めいたぼやきを浮かべた瞬間、ガチャリと部屋のドアが開いた。
そこから入ってきたのも、眼鏡にスーツの男。でも、彼はちゃんと喋った。
「お待たせしてすみませんでした。今日は少しお伺いしたいことがありまして」
彼はそう言いながら勉強犬男の向かいの席に座った。
さっきまで立っていた二人は入れ替わりに外へ出ていった。
「ずいぶん手荒な真似をするんですね、天下のゼロさん達ともあろうものが」
勉強犬男は牽制してみた。
「そこまでお分かりならご理解頂きたい。それだけ我々も真剣ということですよ」
彼は笑ったが、勉強犬男は身を乗り出した。「今度日本で行われるサミットがらみですか?」
眼鏡の男は今度は少し驚いた顔をしてから、変わらない柔和な口調で言った。
「さすがです。話が早くて助かる。では早速これをご覧いただきたい」
彼はスーツからタブレットを取り出して、
勉強犬男の前に差し出した。そこに動画が映し出される。
「コンビニの内部の防犯カメラ…これが何か?」
勉強犬男は確認がてらそう訊いた。
「もう少しで知った顔が映りますよ」笑顔を崩さす眼鏡の男は言った。
動画の再生が続く。
35秒を過ぎたところで、一人の男が店の中に入ってくる。
その男は防犯カメラを一瞬ちらりと見ると、
一目散に食品の棚へ行き、商品をいくつか手にとって、改めてカメラを見た。
そして、そこで連れの者(マスクとサングラスで顔はわからない)に呼ばれ、
その商品たちを棚へ戻し、しぶしぶ店を出ていった。
そこで眼鏡の男は動画の再生を止めた。
「これが何か?」勉強犬男は不服そうに答えた。
「拡大してみましょうか」眼鏡の男は映像を拡大して、
もう一度勉強犬男にタブレットを見るように促した。
勉強犬男が渋々それに従って映像に目を落とした瞬間、
彼はそこに映る男が何者なのかにようやく気が付いた。
「彼は…」勉強犬男が絶句する。
「気付きましたか」眼鏡の男がちっともずれていない眼鏡の位置を直しながら言う。
「そうです、彼は仮屋崎光男。天才物理学者であり、テロリストに拉致された被害者でもあり、あなたととても親しい同級生でもあった、その人です」
あれは懐かしき中学生時代。
学年で「天才」と並び称された二人の男が居た。
そのうちの一人が勉強犬男、そしてもう一人が後に物理学者となる仮屋崎光男であった。
同級生の中でも知的レベルが群を抜いていた二人はすぐに距離を縮め、
暇があれば色んな事を語り合った。親友だった。
「彼は3年前テログループに拉致されたのを境に消息を絶っていましたが」
眼鏡の男が説明するように言葉を並べたが、それを意に介さず勉強犬男はつぶやいた。
「生きていてよかった」目にはうっすら涙も溜まっていた。
眼鏡の男はその想いを汲むようにしばらく黙っていたが、
頃合いを見て口を開いた。「ただ…」
それを遮るように勉強犬男が答えた。
「わかっています。楽観視出来る状況ではない、ということですね。光男がテログループの仲間になってしまった可能性もある。それはすなわち、新たなテロの危機を意味する」
「ええ、長い間ともに過ごすことで相手に同調してしまうということもよくあることですから。しかし、あくまで憶測ですが、我々はそうは考えてはおりません」
眼鏡の男が、じっと勉強犬男の目を見据える。
「彼はテログループの一味などにはなっていない。魂を売ってなどいない。これは彼に残された唯一のチャンスだった。少なくとも私はそう考えています。彼は必ず、この映像で我々に何らかのヒントを送っている」
そこで一呼吸おいて眼鏡の男は口調を強めた。
「あなたにそれを読み解いていただきたい」
勉強犬男は悩んでいた。
ゼロ、つまり警察公安部からの依頼を受けたものの、
手がかりはないに等しかった。
映像のコンビニの場所は、今回の江の島サミットが開催される神奈川県藤沢市。
テロリスト達がサミットに標準を合わせているのは間違いないだろう。
勉強犬男は、旧友、仮屋崎光男を思った。
最後に会ったのは失踪する1年ほど前のことだろうか。
彼はその時、新しい論文に夢中になっていた。「これで世界をよりよくできる」。
熱弁する彼の姿は、テロリズムとは無縁に思えた。彼がテロリストになるわけがない。
そう信じる気持ちは、彼を思い出せば出すほど強まっていった。
そして、ロボットのような公安の眼鏡の男がそう思ってくれていたことも嬉しかった。
友として、この謎は私が解き明かせてみせる。勉強犬男はそう心に誓った。
繰り返し映像を見るうちに、
コンビニで仮屋崎光男が棚から取り出しているものが、
なぜかすべて「カップ焼きそば」だということに気がついた。
「焼きそば…」
その一言を発した瞬間、勉強犬男の脳内を駆け巡るものがあった。
それは若き日の二人の姿。思い出。語り合った日々。そして…
「わかった!わかったぞ!」
勉強犬男は思わず立ち上がり叫んだ。
署内にはもう誰もいない。静かな部屋の中に、彼の声がこだました。
遂に、彼は親友からのヒントを解き明かしたのだ。
時計は深夜1時をまわっていた。
明日の朝一でこのことをあの眼鏡の男に伝えよう。
そう意気揚々と帰る帰り道のことであった。
勉強犬男が何者かによって連れ去られたのは。
次の日、公安の眼鏡の男が話を聞いていたのは、
勉強犬男の唯一の部下である田中であった。
田中は、勉強犬男のデスクから、一枚の紙を見つけていた。
「昨日の帰りの時点までは、この紙が先輩のデスクの上になかったことは間違いないっす」
おそらくテログループに拉致された勉強犬男の机の上には、歴史の年表があった。
眼鏡の男は悔やんだ。
勉強犬男は帰り道に私に電話をした。業務用のそれには、彼からの留守電が入っていた。
「彼からのメッセージを解き明かした」と。
その時私は別の任務中であった。気付いた時点ですぐに折返しをすればよかった。油断した。
少し後に電話をかけた時、勉強犬男は出なかった、寝たのだと思った。
違った。おそらく情報を察知したテログループに仮屋崎同様拉致されたのだ。
公安警察の動きの中で、
サミットに向けて行動を起こしそうないくつかのテロ組織の情報は掴んでいた。
しかし、いかんせん数が多すぎた。
仮屋崎からのヒントを参考に少しでも特定できれば、まだ手の打ちようはあった。
闇雲に一つずつあたっていくか。いや、でもその時間はない。
己の失敗を眼鏡の男が悔やんでいるときであった。
田中が思わぬことをつぶやいた。
「あれ、これ、先輩に教わったのと違う」
最初は「こいつ何言ってんだ」と思った。
でも、次の言葉で、彼の脳内でも何かが弾けた。閃いたのだ。
「先輩、いっぱい食うよ日清焼きそばジュージューで覚えると楽って言ってたのに」
それは年表の真ん中あたり、
日清戦争から第一次世界大戦にかけての年号の覚え方の話であった。
1894年に起こった日清戦争。これを「いっぱいくうよ(1894)日清焼きそば」の語呂で覚える。
さらに10年後の日露戦争、またさらに10年後の第一次世界大戦を、「ジュージュー」で覚える。
以前何かの話ついでに田中が勉強犬男に教わった覚え方だ。
ユニークだったので、ひどく頭に残っていた。それが、役に立った。
「焼きそば!」
そうだった。仮屋崎はなぜか棚から焼きそばを選んでいた。
しかもそれがこちらにわかるように、明らかにカメラを意識していた。
あれはやはり勉強犬男へのメッセージだったのだ。
学生時代、共に勉強した日々の中で見つけた、面白く覚えやすい覚え方。
これは他の誰もわからない、たった一人、勉強犬男宛のメッセージ。
間違いない!
となれば…
日清の清は中国、日露の露はロシアを表しているに違いない。
そして、第一次世界大戦は…おそらく彼らの目的を示しているのだ。
彼らはサミットに参加していない国々でもある。
そんな彼らが、サミット参加国の代表者を狙えば…
眼鏡の男はスタンバイしていた他の眼鏡の男に大声で指示を飛ばした。
「ホシは中国とロシアの過激派グループだ!すぐに特定し、現場へ急行せよ」
そして田中の方を振り返り、やっぱりちっともずれていない眼鏡を直しながら呟いた。
「奴らの狙いは、第三次世界大戦です」
いくつものテログループから、
その情報を基に特定のグループがすぐに割り出され、
間もなく事前に掴んでいた潜伏先へと警官隊が突入した。
そこに勉強犬男と假屋崎光男の姿もあった。二人は多少の外傷はあれど、無事であった。
「まったく、とんだ再会だな」勉強犬男はほどかれた手を仮屋崎光男に差し出した。
「はっはっは。それにしてもよくわかったな、あの焼きそばヒント」
豪快に笑いながら、仮屋崎光男は差し出されたその手を掴んだ。実に4年ぶりの握手であった。
「先輩!」遠くから聞き慣れた声が聞こえた。田中だ。
「おお。今回は初めて君に助けられた感があるよ」
勉強犬男は走ってくる田中に向けて、いつになく上機嫌な様子で言った。
田中はその言葉がどうしようもなく嬉しかった。
「あ、それと光男。3年も拉致されていると身体と頭もさぞなまったろう?」
「私の働いている塾は、ネットを使って世界中の生徒たちに個別指導をするシステムだ。それもなるべく良心的な価格でね。教育を受けたいというニーズは世界中に溢れている。そのニーズに応えるためには優秀な教育者の人手が必要なんだ。そう、君のようなね」
光男は少し痩せた顔をくしゃくしゃにして笑って答えた。
「ではまずは歴史の年号の授業から始めようか」
事件がある限り、そして勉強に謎がある限り、
勉強犬男の物語は続いていく。
これは誰も死なないミステリー、危なくない刑事の事件簿。
さぁ、次回も乞うご期待!
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