学生時代からボランティアや旅行で何度か訪れている「沢内村」が題材ということで、
『「あきらめ」を「希望」に変えた男〜沢内村長深沢晟雄の生涯〜』を読みました。
最初は課題図書感覚で読んでいたのですが、すぐに物語にのめり込んでしまいました。
深沢晟雄(まさお)さんの生涯を丁寧に、そして激動の時代と絡めて熱く綴る物語。
これは、必見です。
あらすじはこちら。
昭和30年代、全国でも最悪といわれた岩手県沢内村の乳児死亡率を、村長就任後わずか5年でゼロにした深沢晟雄。大正デモクラシーの中で青春を送った理想家肌の村長が自らの信念に基づいて、豪雪と貧困に苦しむ村を日本一の福祉村に生まれ変わらせる過程を感動的に描いた傑作。
ちょっととっつきにくいかもしれませんが、
要は最悪の状況から最高の成果を生んだ一人の村長と仲間の物語です。
半沢直樹みたいですね。
そしてそこに戦争や選挙、医療の問題や行政の問題、そしてラブストーリーが絡みます。
面白くないわけがない!!!!!
これは、命の物語。
沢内村は特別豪雪地帯。
毎年、雪と寒さが厳しい冬がくる。
雪で他の町への道は絶たれ、
病院にかかりにいこうとすれば、道中その道の厳しさに、
連れて行く人も一緒になって死んでしまうという悲劇が起こる。
乳幼児死亡率は全国で最悪の数値。暮らしも貧しかった。
政治には派閥ができ、村民たちは馬鹿にされながら育った。
雪、病気、貧困。
人びとはそれがどうしようもないものだと思っていた。
為す術がないと、諦めていた。
しかし、村長となった晟雄はこの状況を変えねばと思った。
そして、村びとと力を合わせそんな現実を乗り越えることができれば、
沢内村はもっともっと素晴らしくなると信じていた。
だからこそ、一つずつの打破を試みた。
敵は多かった。しかし、
真っ直ぐな信念に惹かれるようにして、仲間は増えていった。
晟雄はまず、雪を克服した。
県外からブルドーザーを借りてきて、
積もった雪をかき分けて、道を作った。
冬期交通の確保だ。
ブルドーザーはうなりを発して動いた。除かれていく雪の下から地面が見えてくる。ゆっくりではあったが、道がついていく。家々から出てきた村びとたちが、なぜかひっそりとその道を踏む。が、その無言はたちまち歓声に変じた。
「村長さんのおかげだぁ」と喜ぶ村びと達に、晟雄は繰り返し言う。
「みんなの力です。みんなが力を合わせたから出来たんです」
雪に泣き、雪に苦しめられた沢内だが、
このように力を結集すれば、いつか豪雪を克服し、貧困とも決別できる。
晟雄はそう熱く説いて村をまわった。
次の敵は病気だった。
優秀な医師との出会い、夜通しの語り合いを経て、
晟雄は保健の大切さを村へと浸透させていった。
それは病気になってから医者にかかるのではなくて、
医者の力を借りて病気になる前の予防を徹底しようとする新しい仕組みであった。
晟雄の信念は遂に国をも越えていく。
条例違反の疑いをぶっ飛ばし、
当時国では5割給付だった国保の、老齢者・乳児に対する10割給付を断行し、
日本で初めての六十五歳以上の老人の医療費無料化を実現させたのだ。
そのことが本の中ではこう記されている。
この国の医療福祉の歴史において、この奥羽山中の一寒村がしるした第一歩は、
雪の上にくっきりついた足跡のように、いつまでも鮮やかに記録されていくであろう。
そして、その日はとうとうやってきた。
5年前、全国で最悪だった乳幼児死亡率は、全国のどこにも負けない数字となっていた。
【乳児死亡率0】の金字塔。
日本一の福祉村。沢内はそう呼ばれ、県外や発展途上国からの見学者も増えていった。
それが村人たちの自信にもつながった。村に活気が出てきた。
数々の偉業を成し遂げた晟雄が目指していたものは、
それはしかし、とてもシンプルなものであった。
すこやかに生まれ、
すこやかに育ち、
すこやかに老いる。
大正デモクラシー、大きな戦争による苦しみを経て、
晟雄はそのことの大切さに心から気付いていた。
誰もが無理だと思った。望むことすら諦めた。
それでも。
彼は言った。
しかし私は、自分の政治理念を不動のものと考える。内にあっては村ぐるみの努力を惜しまず、更に外からの温かい理解と協力を信じながら、住民の生命を守るために、私の生命をかけようと思う。
「絶対無理」に彼は命を賭けた。
そしてその言葉通り、決して諦めなかった。
彼と、そしてその仲間が紡ぐ少しずつの希望は、
やがてつながり、広がり、大きなものとなって、
それが生み出す光で、あきらめを照らし染め、更なる希望へと人びとを導いた。
多くの人の心を変えた。
彼の最後の演説の言葉が残っている。
沢内村は前進を続けております。昔の沢内は暗かったし、ひどく不便で貧しかった。私が若い頃、一関の中学校へ行くにも横手まで歩いて出て、そこから新庄へ行き、小牛田へ出、そして一関へ行ったものです。その頃はわれわれが行くと、沢内の猿が来たなどと馬鹿にされたものです。沢内の住民は、まるで三文の価値もないように言われたものです。だから人びとは、沢内に生まれたことを卑屈に思いました。
しかしみなさん。今の沢内は昔の沢内ではありません。村民が力を合わせればどんなことでもできる、ということをわれわれは立証しました。そして今、沢内の村民は日本中のどこでも胸を張って歩けるようになりました。もう卑屈になることはない。沢内村民であることに、大きな自信と誇りを持って下さい。これからも、沢内村に生まれたことに自信と誇りが持てるように、みなさん一緒になって力を合わせ、村づくりをすすめていこうではありませんか。
昭和40年(1965年)。
多くの人に惜しまれながら、まだ道半ばで、彼はこの世を去った。
2005年11月1日。沢内村は隣の湯田町と合併し、「西和賀町」となった。
地図上から「沢内村」の名前は消えた。
しかし、そこに生きる人の中には、そこを知る人の心には、
確かに、驚くほど鮮明に、「沢内村」があり、「深沢晟雄」が居るのだ。
彼の想いは、今も消えることなく広がっている。受け取る人が居るのだ。
天に輝く一番星のように、
どうやら希望というものは、そう簡単には消えないらしい。
日本国民なら誰もが知っているであろう読み物の中に、
晟雄が理想としていた考えが記された一文がある。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
憲法第二十五条。
私たちが忘れてはならないもの。諦めてはいけないもの。
永久不滅に、輝くもの。
これは、命の物語。
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
今回は割愛しましたが、この本、派閥に立ち向かう選挙編も、ラブストーリーも見どころなんです。
生徒や保護者の皆様は、もしご興味ありましたら、教室に置いておきますからね。
過去に数回訪れた「沢内村」。冬の雪もすごいですが、夏にも素晴らしい景色が広がります。
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