25年目の奇跡〜広島東洋カープの軌跡



広島東洋カープが優勝しましたね。

なんと25年ぶりの優勝!

当時、生徒たちはまだ生まれていません。



今年は勝ち星のうち、半分以上の40勝以上が逆転勝利だそう!

奇跡なんて呼称が失礼なぐらいの勝負強さです。



私は見に行けませんでしたが、

とある教室長(広島ファン)の家族が、優勝決定の一戦を見に行けたそう。

巨人のホーム球場の東京ドームがその伝説の舞台でしたが、

立ち見が出るぐらいの大盛況で、ほぼ赤・赤・赤のホームジャック状態。

一位・二位の直接対決でもありました。



元広島の大竹(今は巨人軍)が移動日に勝って、

そして黒田で優勝を決めるという最高の演出!

いやー、もってるなぁ。



広島東洋カープは、

現在の野球界において稀有な、特定の親会社を持たない市民球団が源流。

ね、ウィキペディアさん。

地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており、親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない

今も「市民球団」のイメージは定着しています。

本日は折角ですからその歴史を、ダイジェストで見てみましょう。




はじまりは、1949年。

戦後の野球の隆盛をもとにした正力松太郎のリーグ拡張方針を受け、9月20日、中国新聞社は「広島に広島出身者だけで1チームつくろう」と、原爆による壊滅的被害からの復興を目指したプロ野球球団結成の動きを報じる



広島には、原爆が落とされた歴史があります。

その歴史を乗り越え、地元を盛り上げようと発足した「広島カープ」。

しかし、最初は選手集めさえままならなかったそう。

核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 2]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章ら23人を入団選手として発表した。



1950年にチーム結成。セ・リーグの開幕。

でも、勝率はどん底のビリ。13連敗を記録するなど、

一位から59ゲーム差をつけられての最下位でした。



しかも、お金もない。訪れたのは合併の危機。

1951年、2月分の給料や合宿費が支払えず、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められる。選手達は「甲子園まで歩いていこう」と意気盛んだったが、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪(中国新聞東京支社)、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まった。しかし報告を受けるために後から役員会に参加した石本監督らの説得で合併方針は撤回され、ファンに協力を求め危機打開を図ることになった。



その危機を救ったのは、

人の想いの力でした。

監督の石本はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、石本が構想したカープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、その結果、年末までに400万円(当時)を集めている。この一件は、通称昭和の樽募金と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。



その後も苦難の時代は続きます。

弱小球団のレッテル、合併の危機、お金の問題…

問題は尽きることがありませんでしたが、

現マツダが株主筆頭になり「広島東洋カープ」となった1968年。

広島東洋カープは初のAクラス入り(3位)を果たすのです。

球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録



1973年にユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、

胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入ります。

御存知の通り、この「赤」は、後にチームカラーとなります。



そして、1975年。遂にその時がやって来ます。

最初の奇跡が舞い降りるのです。そう、あの「赤ヘル旋風」です!

球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。



ルーツさんは途中で帰ってしまいましたが、

この年、広島東洋カープは見事優勝。もちろん、初優勝。

世の中は「赤ヘル軍団」の活躍に酔いしれました。

中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝達成した。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのはレフトの水谷。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した。またこの年は春に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている。 経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。



そして1979年、日本一に。

開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く。



1980年に連覇。日本一も制しています。

1984年にも日本一。

1986年にもリーグ優勝。

いやー赤ヘル軍団、大活躍ですね。



そして、1991年。

この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る。津田の穴を埋めるべく大野が一人抑えとしてリリーフを支える。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引けんいん。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤の11本)の中、勝負強い西田真二や山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤智も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡真司がMVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが最終的には3勝4敗で敗退した。



この年から、25年。

広島東洋カープは優勝から遠ざかることになります。



暗く長いトンネル。

その間も、様々な人の想いを背負って、

その赤い軍団は、励み続けました。



そして、2016年。

栄光の瞬間が訪れます。



「生まれ変わった」緒方監督のもと、

黒田、新井の両ベテランコンビがチームを引っ張り、

菊池や石原、中堅陣の踏ん張り、若手の台頭、外国人選手もがんばったね、

そして、多くのファンの応援に後押しされて、遂にその時がやって来ます。

そうです。優勝の時です!!セ・リーグ制覇です!!YEAH!!

マジックナンバーを1として迎えた9月10日、東京ドームにて巨人を6-4で下し25年ぶり7度目のリーグ優勝を果たした。この試合の視聴率は広島地区で平均60・3%、瞬間最高視聴率は71・0%を叩き出した。



広島ファンではないけれど、

黒田と新井の涙を見たらうるっとしてしまいました。

おめでとう、広島東洋カープ!

おっと、またまた長くなってしまいましたが、

はたして誰か読んでいるのでしょうか。



本日もHOMEにお越し頂き誠にありがとうございます。

クライマックス、日本シリーズも楽しみです。




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勉強犬

「第二の家」学習アドバイザー。
世界中に「第二の家」=「子どもたちの生きる力を育てる場所」を作ろうと画策中。過去に3000人以上の生徒の個別指導経験を持つ。元広告営業犬。学生時代は個別指導塾の講師。大手個別指導塾の教室長(神奈川No,1の教室に!)・エリアマネージャーを経て、2015年ネット上で「第二の家」HOME個別指導塾を開設。

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