最近ほぼ日の「今日のダーリン」が刺さりまくりです。今日も一つ糸井さんの文章をご紹介したいと思います。
「じゃましない」ということが、
とても大事な応援であり手伝いであることは多い。
もちろん、わかりやすいかたちで、手伝いたい、とか、
アドバイスしたいとか、ヒントを出してやりたいとか、
外れていそうな道を正してやりたいとか、
役に立つものを渡してやりたいとか、教えたいとか、
とてもいっぱいあるよ。
それがぴったりハマったときには、とてもありがたいし、
手を貸したほうの人も満足度が高いとは思う。
でも、それを求められてないときにやっても、
「じゃまになる」だけってことが、とても多い。
応援でも、手伝いでも、支えになるでも、導くでも、
やる側も、ほんとうにむつかしいと思うんだ。
「なにやら、してやったんだ」とかね、
かんたんに言えるようなものじゃない。
「求められて、水をあたえる」というようなときは、
きっとあるとは思うのだけれど、
その「水をあたえる」のは、あなたとはかぎらない。
出会いとか、縁とか、運命とかも大いにからんでるからね。
「じゃましない」ということが、
どれだけむつかしいことなのかは、わからない。
だって、無関係な「目もくれない」人だって、
実際「じゃましない」とも言えるからね。
手を貸したいと思いながら「じゃましない」のと、
結果的に同じといえば同じなんだ。
つい「じゃまになる」ような人というのは、
そのことに耐えられないんじゃないかなぁ。
わたしが手伝った、わたしが助けた、わたしが教えた。
それは、実は相手を手伝うのではなく、
その「わたし」の勝手な自己実現だったりもする。
「ひいき」とか「ファン」というのは、そういう娯楽だ。
「じゃましない」からはじまることに、
この先、なにかできることが見つかるかもしれない。
しかし、そのときがきても、「じゃましない」が大事だ。
ほぼすべての人間は、「じゃまされない」ことによって
育てられてきた、とも言えるのだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「じゃましない」けど「愛してる」、という簡単な難問。
どうですか、これ。刺さる人、いっぱいいるんじゃないでしょうか。
私もこの塾というお仕事をしていて、ついつい子ども達の邪魔をしちゃう時ってあるんです。要は構いすぎってことですね。どういうことか説明していきましょう。
勉強なんかを教えていると、ついつい調子に乗って、こちらで先回りをしちゃって、彼らの失敗の芽を積んじゃうことがあるんです。もちろんその時はお互いウィンウィンだと思ってやりますよ。自己満足しちゃいます。
でも、長い目で見ると、それって結構な悪手なんですよね。こちらが先回りしていい道を通らせるより、まず自分でやらせてみて失敗することの方が何倍も重要なんです。
動物の喩えで恐縮ですが、その悪手とは、野生のライオンを捕まえてきて毎日餌をやるのと一緒です。するとどうでしょう。しばらくしたらそのライオンは自分で餌をとることができなくなってしまいます。一時の「本人のため」が、人生においての「本人のため」にはならないこともあるんですよね。
これは指導者や保護者の方が陥りやすい罠でもあります。あれもこれもやってあげると、あれもこれもやらなくなっちゃう。できなくなっちゃう。ね、こっちは良かれと思ってやっているのに、悪い手ですよね。
もともとそれなりに年齢を重ねた子ども達には、自力で生きることのできるパワーが備わっているんだと思います。自分で考えて、自分で動いて、自分で進めるパワーが。それを削ぎ取ってはいけませんよね。
もちろん、本当に他力が必要な時もあるでしょう。やってあげた方がいいことも多いと思います。そのタイミングや物事を見計らって極力「邪魔しない」のが、我々大人に求められている「教育」なのではないでしょうか。
なんて、主語が大きくなってしまいましたが、個人としてもそのあたりの塩梅を気を付けながらこのお仕事を続けていきたいと思っています。
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
自力をつけるためには自力を使わなくては。
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