忘れられない生徒がいる。
前職の頃、僕が入会の面談をしたその生徒は、嫌々連れてこられた感満載で僕の前に座った。おどおどしたお母さんが、何度か質問の確認をするのだけれど、うんともすんとも言わずずっとふてくされている様子だった。もちろん僕の質問にもほぼ無視を決め込んでいた。今であれば入会させないだろうな、という生徒だ。
学校でもそんな感じなのだろうか、1と2しかない通知表に慌てたお母さんが、塾の申込書に印を押した。その子は明後日の方向を見ながら、ドラクエ風に装飾してある掲示物をつまらなそうに眺めていた。最悪クーリングオフだなと僕は覚悟していた。
授業初日。彼はなんとか来た。本当に「何とか」という感じだったので、筆箱とノートは忘れた。本来なら「何しに来たんだ」と叱るところだけど、「よく来たな」という褒め言葉が自然に口から出た。本音だったのだろう。
数学の授業だったのだけれど、計算はやっぱりあやしくて、どこまで戻ろうかと講師と相談をした。何よりも気になったのは、姿勢だった。頭を使うことを、考えることを、勉強を、拒否しているように見えた。
たまらず帰り際に呼び止めた。こういう子はお母さんがいない方がよく喋ることを知っていた。面談席に座って、開口一番「塾嫌なのによく来たじゃん」と改めて褒めた。彼は小さく頷いた。
「でも、本当に本当に嫌なら、俺からやっぱり塾はやめようってお母さんに話してみようか?」
あえて一人称を俺にしてみて、味方感を出してみた。それと同時に、本音のところを探りたかった。彼は、少し戸惑いを見せた。僕は「あ、なんだ、そういうことか」と腑に落ちたから続けた。
「まぁ、本当に本当に嫌までいってないぐらいの嫌だったら、もう少し試しに来てみなよ。やればできると思うよ。もちろんみんなやんなきゃできないんだけどさ」
彼は次の授業にも来た。今度は筆箱とノートも持ってきた。フル装備だ。
今度は教室に友達を見つけたせいか、テンション高めで講師とも会話が続いた。好きなゲームか何かの話で盛り上がっていた。その後も通塾は続いた。もちろん学校の内容に追いつくのには時間がかかるとわかっていたけれど、彼の能力自体は悪くないように思えた。
通塾に慣れた頃、「次のテストではまだ結果は出ないと思う。でも、その次はチャンスだな」みたいな話をしたときに、一瞬彼の目に光が宿った気がしたから、あえて突っ込んだ。
「なぁ、なんで勉強嫌なの?」
はい、嫌な理由とりあえず思いつくまま言ってみて、とどんどん挙げさせた。「面倒臭い」とか「だるい」とか、ありきたりな言葉の中に、ふと気になる一言を見つけた。
「できないってわかるのが嫌」
一生懸命頑張ったのに、できないのが嫌。できない自分を自覚するのが嫌。どうせできない、カッコ悪い、恥ずかしい。運動音痴な子がみんなの前で走るのを嫌がるのと同じ感覚みたいなのも入ってるかな。ちょっと違うかな。
広がったその想像が合っているかどうかはわからなかったけど、その一言が気になったから、会話の最後に付け加えた。僕も彼も野球部だったからそれっぽく。
「さっきも言ったけど、次の次のテストでは、いい点、堂々と思い切って狙っていっていいからな。三振しても、打席に立つことに価値がある、だろ?」
「あいよ」なんて言いながら彼はそそくさと帰っていった。でも、その会話の少し前ぐらいから相性が良い講師が見つかったこともあって、彼は頑張っていた。なんだか目の奥にちょっとした希望が映っているように見えた。
時が経ち、受験の頃には数学は得意科目になっていた。無事に志望校に受かって、挨拶に来てくれたとき、「ありがとうございました」とニコリと笑った彼の顔を今も覚えている。「お前、最初の日と随分違うじゃねぇかよ」と茶化した。
もしかしたら、初めて会った頃、彼は真っ暗な場所に居たのかもしれない。でも、もしも今彼と同じ場所に佇んでいるような子がいたら、どうか知ってほしい。
暗闇の中にいると、だんだんそこが居心地良くなって、明るい場所が眩しすぎて、あえて遠ざけてしまったりする。大人だって、僕にだって、そういうことはある。
でも本当は、すぐに光に手が届く場所に居るんだよ。
手を伸ばそう。前へ踏み出そう。
ちょっと最初はきついけど、大丈夫、またすぐ目は慣れる。
光に向かう姿勢を持て。
自分にもそう言い聞かせながら暮らしていこう。
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
光を浴びすぎて疲れちゃった時には、暗い場所で休んでもいいよね。
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