いやはや、すごいものを読みました。これが無料で読めちゃうなんて、そういう意味では良い時代になりました。素敵な物語をありがとうございました。
本日は「兵士とブリキ屋」という漫画についての記事です。
あらすじはこちら。
とある小さな村に住むブリキ屋は、兵士たちの義体を造り、生活を営んでいる。近所の姉ちゃんの義体もブリキ屋が取り替えてやったものだ。体を取り替えるたびに何かが失われ、ヒトから別の何かに変わっていく。おぞましいほど美しく、残酷な世界で生きる2人は、人のまま共に在れるのだろうか?
正直読む前はそんなに期待していなかったのですが、読んでビックリしました。思わずもう一度頭に戻って読み直してしまいました。この記事を書きながら、二度三度、その度手が止まって書くのにだいぶ時間がかかってしまいました。
絵も綺麗ですし、メインストーリーもなんというか考えさせられますし、ファンタジー的な要素の中に今我々が暮らす現実へのメッセージも込められていて、読んだ後もしばらく心と頭に残り続けましたね。良い映画を見た後のような気持ちです。
少々分かりにくいところもあるのですが、描写一つ一つに意味があって、それらすべてを丁寧に説明しない感じも好きでした。読む度に新しい解釈が生まれるかもしれません。
個人的なそれらについての考えは、以下のネタバレ感想で記しておきたいと思います。
兎に角まず読んでみてください。読み切りということで一回目はすぐに読めると思いますので。
ここから若干ネタバレあり
「人は、取り替えても、ヒトだろうか」
そのキャッチコピーを見たときに思い出したのは、テセウスの船というお話でした。
テセウスがアテネの若者と共にクレタ島から帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれを長く保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。さらに、置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船になるのか。
そのものを構成する要素が置き換えられたとき、それは同じものと言えるのか。作中でも似たお話が例として出されていますが、この疑問がこの物語の大きなテーマになっています。
「涙よ止まれ この体が錆びて止まってしまわぬように」
そんな疑問を浮かべた中での、ラストのこの一文が刺さりますね。あえて深読みすれば、「兵士は元の人のまま(=悲しいから泣く。体が…は自身への言い聞かせでもある)」とも「兵士はヒトになった(=涙がなぜ流れているのかわからないし、体が…は事務的な心配)」とも、どちらとも取れるセリフになっているのかなと感じます。
そんなメインテーマが心に刺さるのはもちろんですが、上述の通り、一つ一つの描写が秀逸です。野暮ですが、いくつか書き出してみましょう。あ、あくまで個人的な考えですのでご容赦ください。
お父さんのメッセージやラストシーンにて、兵士がブリキ屋を想う時、イメージするのは自分との未来ではなく、他の誰かとの未来。相手を思いやっているからこそ、叶えられないことがあるのだということがわかります。
残酷な現実を示す犬の描写。「不穏分子」や「銀行ストップ(経済制裁?)」などの描写から読み取れる現代の戦争への暗示。戦争は残酷なもの。我々も決して忘れてはならない、彼方へ向けたメッセージなのかなと。この時期に公開されたということも意味があるように思えます。
二人の名前が通して出てこないというのも「これは彼らだけの物語を表しているのではない」ということへの表れでしょうか。
物語として心に刺さるのはもちろん、こんな風に考えさせられるというのは、良くも悪くもその刺さったものがなかなか抜けず、より心に残りますね。湧き起こったのは良い感情だけではありませんが、なんだか大切にしたいと思います。
それにしても、こんな伝え方があるんだなぁ。漫画ってすごいなぁ。
今自分たちが幸せに暮らせていることに感謝をしつつ、だけどその平和にただただ入り浸るだけではなくて、「考えること」そして「その平和をなるべく維持するための自分にもできる小さな努力」は諦めずにいたいですね。
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
素敵な物語をありがとうございました。
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