課題「小田急江ノ島線」


「小田急電車」


1 、小田急江ノ島線藤沢行きー大和駅


あ、今日私やっぱりついてない。


坂口智子は本日3度目のため息をついた。

我ながら、こんなに落ち込むのは珍しいと思う。

疲れてるせいもあるのかな。


藤沢行きの電車に乗り込み、

席を探したが、満席。

こんな日は座って眠りたかったのに。

やっぱりついてない。


仕方なく、ドアの横に立ち、

くたびれた案山子のように目線を下げてぼーっとしていたら、

嫌でも今日一日の記憶が頭に流れ込んできた。


まず、朝。

寝坊した。

保護者との面談があるにもかかわらず、予定よりも1時間も大幅に寝過ごし、

職場の大和教室に着くのが保護者と同時になってしまった。

「教室長さん、大丈夫なんですか」と言いたそうなあのお母様の目は、

しばらく忘れられそうにない。

生徒の高校受験の相談にはきちんと乗れて、信頼はしてもらえたと思うのだけど。


二度目は夕方だ。

教室で中学生の女の子同士が喧嘩を始めた。

好きな子が被ったらしい。ひどい罵り合いだった。

女は何歳でも女だな。

私が中学生の頃ってこんなに恋愛恋愛してたっけ。

最近の若い子はすごいなぁ、と24歳の私が感心した。


そして三度目はついさっきだ。

仕事を終え、夜の予定を再確認。

六会日大前駅の友人へ届けるはずの物を、

すっかり家に忘れてきた事に気付いた。

優しい友人だから、きっと許してはくれるだろうけど、

本日ダメダメな自分にショック。

思い出して、余計にヘコむ。


はぁ、ともう一度ため息。

下を向いたまま、

誰が見ても落ち込んでるとわかる姿勢でうなだれていた私。

疲れていたからか、ショックからなのか、

電車はいつの間にかに湘南台に着いていたけれど、

その間の記憶がない。


乗客の三分の一ぐらいが降りたところで、

目線を少し上げた私の目に奇妙な光景が飛び込んできた。

ちょうど私の対角線。

はじっこの席に腰掛ける、

二人の男の子連れのお母さん。

クスクス笑っているその二人。

可愛らしい無邪気な笑顔だ。

おそらく双子なんだろう。

片方が赤。もう片方が黄色。

まるで二人を見分ける為の目印のような、

そのGAPのTシャツ以外は、

二人驚くほどよく似ている。


でも、私にはそれ以上に驚くことがあった。

二人の目線の先。


なるほど、二人が笑っている理由はこれか。


二人からも私からもちょうど対面の座席にその答えはあった。

見た瞬間、私も吹き出しそうになってしまった。


はじの席に座る、眠っている小太りなおじさん。

その胴体にまるで輝くような、緑色のTシャツ。GAP。

お前は見分けつくだろ、と、

ひどく雑で申し訳ない突っ込みが自然に自分の脳内で再生された。


今日一番。自分でもそう認定できるぐらい、

きっと私はにやけていたんだろう。

双子もそれに気付き、こちらに目配せした。

「ね、ね、面白いでしょ」という具合に。


二人のお母さんは申し訳なさそうだったけど、

やっぱり笑ってた。

私も、こらえずに笑った。



ずっと下を向いていたら、

こんなに面白い景色も目に入ってこないんだな。

温かい空気が上昇していくように、

きっと楽しいことや幸せな事は頭上にプカプカ浮いてるから、

上を見ながら生きていかなくちゃ。


そう思った瞬間、

開いたドア。六会日大前駅。

ナイスタイミング。

あ、今日私やっぱりついてるのかも。






2、小田急江ノ島線藤沢行きー桜ヶ丘駅


高座渋谷の駅で、急に乗ってきたから、

私と彼、二人一緒になってビックリした。


笑顔が二つ並んで、

すっと心が軽くなるのを感じたけど、

無理矢理そこに蓋をした感じ。


私はまだ許してないよ。

彼にそうわかるように、ふいの笑顔を立て直し、

もう一度ふくれた。


ほぼ満席の車内で、

ひたすら謝り続ける彼。

「ごめん。本当ごめん。約束の時間に遅れて」

本当に怒ってるのはそんな事じゃないのに、

それに気付かないのもむかつく。

しばらく放っておこう。


そう決意した矢先、

桜ヶ丘駅の隣の高座渋谷駅で例のおじさんが乗り込んできた。

降りた人と入れ違えで、

素早く角の席に座ったおじさんは、

そのままもたれて目を閉じた。


衝撃だったのは服装だ。

緑色のTシャツ。GAP。

何が衝撃って、

そのおじさんの対面の席には、

なんと色違いのTシャツを着た子どもが座っていたのだ。

しかも、二人。


赤、黄色、緑。まるで信号みたい。

神様の悪戯か、それとも単なる失敗か、

土曜日の夜、混んでるけど比較的落ち着いている車内が、

微妙にざわつき始めた。


まず異変に気付いたのは、対面の子どもたちだ。

ゲラゲラ笑ってる。可愛い。

そんな二人の口をお母さんが多分「静かにしなさい」なんて言いながら押さえてる。

だけど、少しずつその笑いは社内に拡がっていって、

みんなクスクスだけど笑っていた。


まぁ、ドアの前で寄っかかってうなだれてる綺麗なお姉さんや、

緑色の当の本人を含めた何人かはまるで気付いていなかったけど。


私と彼も、気付いた組だった。

それも乗ってきた瞬間に。

やっぱり私と彼って似てるのかな。

きっと同じ瞬間に笑ってた。


だけど、こんなことで許すわけにはいかない。

だって、今日は大事な記念日なんだもの。


ある夏のすごく暑い日。

大学の2限と3限の合間に散歩していたら、

生協の脇のグラウンド隅で素振りをしているあなたを見つけた。

一目惚れだったのかな。

その姿がカッコ良くて、すぐ友達に彼が誰だか聞いた。


野球サークルに所属している同じ2年生の男の子。

1年生の時の英語のクラスは隣だった。今まで全然気付かなかった。

勇気を振り絞って声をかけたら、最初なのに会話が弾んで、

すぐに意気投合した。


色んなところに行ったね。二人とも奥手で。

楽しいこともいっぱいあったよね。泣いたこともあったけど。

ゆっくり歩んできたよね。二人のペースで。

それでやっと、

あなたを見つけてから1年後に無事に付き合うことが出来た。


あーあ、そんなこと、あなたはもう忘れてるのかな。


「さっきの面白かったな」

いつもの調子で話しかけてくる彼に、

「そう?」と不機嫌なフリで返す。

記念日を忘れている彼に、私の精一杯の抵抗だ。


今日は桜ヶ丘駅で待ち合わせをした。

付き合って1年。私達ももう4年生だ。

彼も私も就職は何とかギリギリ決まったけど、

卒論はまだまだ見通し立たずだった。

その忙しい最中、合間を縫って買いに行った記念日のプレゼント。

楽しみに鞄に忍ばせてきたけど、

彼はいつも通り手ぶら。ジーパンのポケットに財布と携帯だけ。

それで「今日はどこ行くんだっけ?」って笑う彼が、

すごくムカついた。


プレゼントがないのが悲しいんじゃない。

「記念日おめでとう」の言葉が欲しいんじゃない。

ただ、私が大事にしているものを、忘れられてるのが辛いのだ。


ガタンゴトン。

身体も気持ちも揺れながら、

電車は行く。はぁ、今日はもうやっぱり帰ろうかな。


そう思った矢先、

湘南台駅を過ぎた辺りで、

人が空き、一つ向こうのドアの前に立つあの綺麗なお姉さんが目に入った。

さっきまでうなだれてたのに、

満面の笑みを浮かべて、さっきの子どもたちと目を合わせている。

楽しそうだ。


こんなこともあるんだな。

一つのきっかけで、

何かが大きく変わることもある。

でもそれはきっと、

いい事も、悪い事も、だ。


二人でよく彼の地元の桜ヶ丘駅周辺をデートした。

何にもない街だってあなたは言うけど、

少しだけ田舎で、ちょっとだけ都会な、

そんな雰囲気がとっても居心地がよかった。

味は濃いけど美味しいラーメン屋。

時間をつぶした駅前のマック。

大学の課題用に文房具を探しに行った愉快なおじさんの居る文房具屋。

桜色の駅の壁も全部、お気に入りだよ。

ずっと当たり前に繰り返し繰り返し行ってた大好きな街。


でも、いつかはそんな当たり前も、

変わっていってしまうのかな。






3、江ノ島線藤沢行きー高座渋谷駅


自転車で行く。

駅から少し遠い郵便局で用事を済ませてから、

帰りにスーパーへ寄って夕飯の買い物をして、

一度家に帰ってきて、支度を終えて、

駅まで徒歩で行ってそのまま藤沢へ向かう。


頭の中で描いていたそんな予定が崩れさる。

旦那からのメールで、「風邪。すぐ帰る」だそうだ。

夕方前に家に帰ってきた旦那の扱いに困る。

「寝てるから放っておいていいよ」と言われたので、

素直にそうしておく。


「ご飯は?」

目一杯やさしい声で問いかける。

「いい、いい。食欲なし」

弱ってる声に少し笑ってしまう。

「でも、私出ちゃうよ?」


今夜は藤沢でお母さん友達との食事会があるのだ。

みんな小さい子連れなので気を使わなくて済むのがいい。

当然、お店もそういう雰囲気の、私ももう常連のお店だ。

「お母さん会だろ?美樹も一緒ならちょうどいい。うつさないで済む」

「そう」

相槌だけうって寝かせてやる事にした。

次は隣の部屋ですやすやと眠る美樹を起こさなくては。


駅まで続く、

区画整理された平坦な道が私は好きだ。

自転車でそこを駆けると、

多少の嫌なこともすぐに忘れられる。

背負う美樹のはしゃぐ姿も楽しみの一つ。


あっという間に駅に着き、

自転車を駐輪場に置いて、券売機で切符を買う。

改札を抜けて、ホラ来た!

予定時刻ピッタリ。

今度はすべて順調に進んだ。

と思ったら、響いた着信メール音。

しまった、マナーモードにしてなかった。

そして、も一つしまった。「駄目だ。救急車呼ぶかも」

旦那がビビりなのを忘れていた。


すぐに今来た道を引き返す。

美樹が帰りも後ろで楽しそうにしてるのが救いだ。

「ちょっと落ち着いた」という高熱と腹痛を持つ彼を、

「いやいや病院に行きなさい」と説得し、

さすがに救急車は大袈裟だったので、

三人で善行のかかりつけの病院へ向かうことにした。


「タクシーで行く?」「いや、少し落ち着いてきたから歩く」

私達が帰ってきて安心してやがるな。

冬物のパーカーを着た旦那の厚着に少し苦笑しつつ、

ゆっくりのんびり駅まで歩いた。駅近7分の家で良かった。

「ごめんなー」と彼。

「予定台無しにしちゃって」

ますます弱っているその姿に思わず笑ってしまう。


人生はきっと、予定調和じゃないから面白い。

きっと。多分。おそらく。いや、本当にそうかな。

ホームに着くと、ちょうどあと5分で電車が来るところだった。

旦那に「大丈夫?」と声はかけたが、

私の手はもちろん美樹を抱いていた。

自分で歩けるくらい回復したはずの旦那の顔は、

ますます青くなっているように感じられた。


「うつるといけないからちょっと離れてていいよ」

中途半端な優しさは誰の為にもならない。

「倒れられた方が困るんですけど」

わざと強い口調で言った。

「じゃあ近くにいてください。電車来たらすぐ座るから」

そう言って着ていたパーカーを脱いで私に渡した。


まだまだ暑い夏の日の夜。

確かにその厚着はきついだろうと思っていたが、

「ねぇ、なんでそんなの着てきたの」

中に着ていたものがもっとまずかった。半袖のTシャツ。

それも、緑の。


「病人なのにずいぶん派手ね」

皮肉っぽく言ってみた。

「病人は服なんて気にしないだろ」

確かに。でも、ぽっこり出たお腹は、あんまりTシャツが似合う体じゃない。

「今日は本当にごめんな。あー自己嫌悪。今日、仕事でも失敗しちゃってさ」

なるほど、だからあんなに弱ってたのか。

「俺ってみんなに迷惑かけてばっかりなんだよな」


そんな事ないよ、と声をかけた時にちょうど電車が来た。

旦那が少しよろめきながら素早く乗り込む。

空いた席に座ったのを確認して、少し離れた席に私達も座る。

まだまだ小さいとはいえ、子どもを抱っこしていた手がしびれている。

美樹はおとなしくすやすや眠ってる。

ちょっと休憩。すると、私はすぐに車内の変化に気付いた。


旦那の前に、

二人の子供。

しかも、Tシャツが色違いの。


その二人が大笑いしている。旦那は寝ている。

揃った赤、緑、黄色。

私もつられて笑ってしまった。ごめん。

少しずつ、少しずつ。

車内が笑顔で彩られていく。


湘南台で人が降りてからは、

さっきまでひどく元気のなかった若い女性が、

目をキラキラさせて二人の子どもと一緒に笑顔になっていた。

間違いなく、その引き鉄を引いたのはうちの旦那だ。


ねぇ、達哉。よかったね。

ほらね、迷惑ばっかりかけているわけじゃないよ。

気付いてないけど、無意識でも偶然でも、

誰かを笑顔に出来るってすごい事じゃない。


私も、美樹も、

あなたが居ないと困る。

だから、早く元気になってよね。

そしてもう一度色違いのTシャツ達を見比べて、

ごめん。やっぱり笑ってしまった。


人生はやっぱり、予定調和じゃないから面白い。

きっと。多分。おそらく。いや、今だけはそう信じてみよう。






4、江ノ島線藤沢行きー長後駅


しまった。


今夜のサッカー撮り損ねた。


前嶋亮介は電車に乗り込む瞬間にそれを思い出し、

途端に憂鬱になった。


これから合コンなのにな。

藤沢行きの車内は土曜の夜にしては少しだけ混んでいた。

席はいくつか空いているが、

無理矢理そこに座るほど疲れてもいない。


まぁ、藤沢までだし立ってよ。


そう思い周りを見渡してすぐに気付いた。

うるさい奴が居る。

ジャカジャカ聞こえる音。

電車内には珍しいヘヴィーな歌が響いている。

犯人はすぐにわかった。だって、ヘヴィーな格好だったから。


金髪モヒカンの彼は漏れる音なんて気にもせず、

リズムに合わせて身体まで動かしている。

まずい、まずい。笑ってしまいそうだ。


ん。


もう一度モヒカンの顔をチラチラと見る。

こいつ、知ってる。

昔の教え子だ。


だいぶ変わったが、面影が少しだけ残っている。

小学生の頃は真面目ないい子だったのになぁ。

長後の商店街を、駅まで送っていった思い出が甦る。


「ありがとー先生」

あの頃の彼は可愛い笑顔で、手を振っていた。

おそらく今は高校生なはずだが、

見た目は高校生というかジャマイカ人だ。

心の中で説教する。何をやってんだよ。

もうお前は俺の生徒じゃないんだな。


子どもってわからないなぁ。

俺もいつか子育てに悩む日が来るんだろうか。

まずは結婚しなくちゃだけど。

個人的には全く焦っていないが、

この年齢になると急かすのは周りだ。

最近も親と話す時にはいつもこの話題になる。

ほっとけ、とも言いたくなるが、

親孝行したい気持ちがあるのも事実だ。

なので、今日も婚活に勤しむ。


でも、自分の子がこんな風になったら…

そう想像してぶるっと震える。

電車は湘南台の駅に着いた。

車内の人が一斉に動き出し、

その波に押されて、席から立ち上がったおばあさんがよろめいた。


危ないっ。きっと誰もがそう思ったが、動けなかった。

一瞬の出来事。倒れ込むおばあさんが床スレスレで踏み止まった。

転びそうなおばあさんを間一髪救った、その大きな手は、

他でもない金髪モヒカンの彼の手だった。


「あぶねぇぞ、ばあさん」

どす黒い声でそう言った彼がカッコ良く見えた。

「ありがとねぇ」そう言いながらおばあさんが笑う。

「別にいいよ」そう言って照れ臭そうに早く降りろと手で促す。

おばあさんは彼にぺこりとお辞儀をして電車を降りていった。


やるじゃん、さすが俺の生徒。なぜか自分が誇らしげになったのに気付き、

違う違うと突っ込む。

おばあさんの件で注目を浴びて、彼も気付いたのだろう。

音量を下げ、その奇妙な踊りをやめた。


こっちに気付かれたらまずい。

いや別にまずくはないのだが、

なんだか気まずくて車両を移る事にした。

隣の車両へ続くドアの前で待機し、

六会日大前駅に着いたと同時に移動した。


こっちはこっちで奇妙な光景が広がっていた。

眼の端にカラフルなTシャツが輝く。

ちょうど車両の真ん中辺り。端にいる自分からは少し遠いが、

すごく目立っていた。

おそらく双子だろう。赤と黄色のGAPのTシャツ。

おお、と思った途端、もう一つの奇跡に気付いた。

その対面に居る緑色のTシャツのおじさん。


思わず笑ってしまった。

そこで双子のお母さんと目が合った。

ぺこりと会釈されてその意味を把握する。

きっと騒がしくてしまってすいませんねぇ、という事なのだろう。

ケラケラ笑う二人の子どもを見て、

モヒカンの彼の思い出がもう一度頭に浮かんでくる。


狭い長後の駅前の道を、

危ないからって手を繋いで一緒に歩いたな。

車が通る度にはしゃぐのを、

「この手を離しちゃ駄目だぞ」ってたしなめた。

「えー、なんでー」と笑いながら言う君に、

「いいか。人の手はな、人を守ったり助けたりする為にあるんだよ」

って少しカッコをつけて言ったのを覚えている。


もう一度双子のお母さんに目線を戻す。

年齢的には自分と同じ歳ぐらいだろうか。

それで、子どもが二人。

いいなぁ、と不意に思った自分に感心した。


やっぱり俺、子ども好きなんだな。


そうだ。やっぱりあいつに声をかけてみよう。

そう思い立って、元の車両へ足を踏み入れる。

ガタンゴトンと揺れる小田急線、車両のちょうど真ん中辺りに、

おとなしく吊り革につかまる君を再発見した。

そのタイミングで、向こうもこっちに気付いた。

あの頃みたいな無邪気な笑顔で、

「おお、先生」と笑う彼に「よぉ」と声をかけ、僕も笑った。






5、江ノ島線藤沢行きー湘南台駅


その日、高田美恵は二日酔いだった。

しかも、本来はお休みだったのにもかかわらず、

急に職場に行かなければならなくなり、

休日の土曜日だったはずなのに、昼からバタバタだった。


疲れたなぁ。

身体的にはちょっと待てよという感じだったが、

気持ち的に欲していたので当たり前のようにお酒を嗜んだ。

ただ、それが失敗だった。


駅前の行きつけのお店で軽く一杯だけの予定だったけど、

予定は変わるもの。

何杯かいただいて、お店を後にした。

今日は時間帯がいつもより早かったからか、客層はいつもと違っていて、

カウンターの隣にはカップルが居た。しかも、喧嘩していた。

おかげでイライラは募るばかり。これもいけなかった。


今日は早く帰ろう、と乗り込んだ電車内。

おじさんと子どものカラフルなTシャツに目をとられたが、

その時の私は余裕もなかったのだろう。

ケラケラと笑う子どもに少しイライラして、

二人のお母さんを目で威圧した。

まるで、すいません、と言うようにお母さんが頭を下げた。


ああ、今思うとすごく申し訳ない。

私はきっと、

知らず知らずそのイライラの矛先を探していたんだろう。

シートの横に寄りかかりながら、舐めるように車内を見渡して、

標的を捉えようとしながら、寝た。


起きると、

既に六会日大前駅を通過していた。

あらやだ。立ったまま寝るなんて。

今度は自分に腹が立った。


寝て少し頭が冴えたのか、

さっきまでは聞こえなかった周りの会話が聞こえてくる。


ちょうど対面に立っている二人。

おそらくカップル。

男の方がやさしく声をかけているのに、

女の方は笑顔もなくつれない返事ばかり。

また喧嘩かよ。でも、これじゃ男の方が可哀想だ。

標的、発見。


また男の方が何か声をかけ、

スマートフォンの画面を彼女に見せようとした。

それをつれないばかりか彼女は手で振り払い、

彼の手から電話機は飛んだ。

ちょうどそのスマートフォンが足元まで滑ってきて、

酔っ払い・怖いものなし状態の私はそれを機に攻め込んだ。


「あんたさぁ、ちょっとそれはひどすぎるんじゃない」

ブツを拾いながら彼女の方に口を出す。

私の保身の為に言っておくが、普段なら絶対にこんな事しないのだけど。

「え?」と驚いた顔の彼女。

彼氏の方もスマートフォンを受け取りながら驚いている様子。

溜まっていたものを吐き出すように、言葉を続ける。

「どんな場所でもな、お互いが楽しもうとしなきゃ楽しくなんてならないんだよ」


これはさっきのお店のカップルに向けた言葉でもある。

ディズニー行ったけど楽しくなかったとお気に入りのお店で喧嘩していた二人。

ごめん、ようは八つ当たりだ。

すぅーっと血の気が引いて、そこでやっと私は正気に戻った。


周りの目が私に集まっている。まずい。やってしまった。

「あ、ごめん!他人がいきなり。申し訳ない」

手を顔の前に出し、平謝りでペコペコしてみる。

きっと効果はないと思っていたが、予想外の言葉が返ってきた。

「全然いいんです。本当そうですよね」

「へ?」

思わずすっとんきょうな声が出てしまった。

彼氏の方も目を丸くしている。

もう一度私に車内の目線が集まる。

それを察知してか、彼女は続ける。

「いやー流石です。いつも良い事言うなぁ、姐さんは」

この一言で車内の人は「何だ知り合いか」と私から目線を外した。


彼女がすすっと寄ってきて言う。

「知り合いみたいにしちゃってごめんなさい。でも…」

「いや、いいよ、いいよ、助かった。本当、助かった」

頭を小さく下げて一緒に笑った。

ふと見ると、まだ彼の目は丸いままだ。


それから彼女に本日の一部始終を聞いた。

もちろん、彼には内緒で。


対面に寄りかかりながら、

救出されたスマートフォンをいじる彼はふてくされを必死で隠すようで、

それをクスクス笑う彼女を見て、

ああ、なんかいいなこの二人は、と思った。

願わくば、幸せになって欲しい。


「男なんて気の利かない生き物だよ。そんなのも含めて受け止めてあげなきゃ」

経験談も踏まえてアドバイスした。

「女は強いんだから」

彼女は真っ直ぐこっちを見て、うんと頷いた。

ああ、いい娘だ。


スマートフォンに飽きて外をぼーっと見てる彼をチラッと覗く。この幸せ者め。

でも、私は気付いたよ。

君も、今日のこの日を忘れていたわけじゃないんだよね。

この後、それに気付いた彼女がどんな想いをするか、

それを想像してにやけた。

どうかしたんですか?と彼女が首を傾げる。

何でもないよ、と笑う。


いかん。二日酔いが吹っ飛んで、元気が出てきた。

「あ、私ココでもう一軒行くから」と藤沢本町駅で逃げるように降りながら、

私は二人に大きく手を振った。


ハッピーエンドはもうすぐだよ。素敵な未来はもうすぐだよ。

頑張れ。楽しめ。幸せになるんだよ。

さぁ、二人の幸せを肴に、飲むぞ。


折り返しの電車を待ち、

私はまた行きつけの湘南台のお店へ向かった。







6、江ノ島線藤沢行きー藤沢駅


もうすぐ電車は藤沢駅に着く。

降り立つのは初めてだ。

そんな土地が明日からは職場か。

人生わからないものだなぁ。

夜の空を見上げながら、篠原徹はふぅと一つ息を吐いた。


藤沢で降りる人が意外と多くて、

ポケットから財布を取り出す時、

慌てて派手に小銭をばらまいてしまった。

あたふたしていると、

二人の男性が「大丈夫ですか」と声をかけてくれた。

金髪モヒカンの大男と小柄な細身の男性。

まさか殺し屋のコンビだろうか。

なんて思うぐらいデコボコで似合わない二人組だ。

ただ、見かけよりもだいぶ良い人たちで安心した。


「御礼に缶コーヒーでも奢りますよ」

私の一言はすぐに却下された。

「あ、僕これからすぐに合コンなんで大丈夫です」

「あ、お気持ちありがたいんですけど俺もこれから飯なんで大丈夫っす」

どうやらこれから別行動らしい。ターゲットは別の人物なのだろうか。

ひとしきり御礼を言って二人組と分かれる。

不思議な二人だったなぁ。ただ、素直に嬉しかった。


明日からは新生活。

慣れない土地での新しい暮らし。

いきなりの失敗だったが、

人の温かさに触れられて、少しだけ安心した。

よし、次は美味しいご飯屋さんを探そう。


ぶらぶらと街を歩いて、

看板に惹かれて入った裏路地の小さなイタリアン。

中にはお客さんが一組。

大学生のカップルだろうか。

静かだから嫌でも会話が聞こえてくる。


「なぁなぁ、さっきは何怒ってたんだよ」

男の子が女の子の顔を覗き込むようにして聞く。

「もういいの。それよりさっきのお姉さんだいぶ酔っ払ってたけど大丈夫かなぁ」

強がってる風ではなく、本気でもういいと思っている様子で、女の子は返す。

「あのお姉さんなら大丈夫だろ。またこれから飲むって言って降りてったし。タフだよな」

「あの双子とおじさんも面白かったよね。同じTシャツの」

「ああ、ああ。見た瞬間笑っちゃったもんな。本当不思議な電車だった」

そこで少し間が出来る。女の子が頭を下げながら言った。


「あの。今日は途中までイライラしててごめんなさい」

そこでまた、間。女の子が顔をあげる。

「理由って、もしかして、これだろ」

そう言って男の子はお店の人に合図を出した。

するとお店の音楽が何だか陽気な曲に変わった。

ショーのようで、関係ない私もテンションが上がる。


明るい音楽と共に、

ろうそくの付いたケーキが運ばれてきた。

他の店員さんが私に申し訳なさそうに声をかける。

「騒がしくてすいません。あの二人、記念日らしくて」

本当に申し訳なさそうだから、逆にこちらが恐縮する。

「全然いいですよ。あったかいお店ですね」

それは本音だった。


やっぱりここは、あったかい街だ。


「一年おめでとう」と書かれたケーキを泣きそうな笑顔で見つめる彼女。

男の子はさらにお店の人から受け取ったプレゼントを渡す。

「忘れるわけないだろ。こんなに大事なこと」

その言葉を聞いた途端、我慢しきれなかったのか、

女の子の目から涙がこぼれた。


「またいっぱい色んな所行こうな」

ここからじゃ顔は見えないが、彼もきっと素敵な笑顔なんだろう。

「ごめん、ありがとう」

女の子はそう言うのが精一杯だったみたいだ。


後で聞くと、

このお店は記念日用のケーキが有名なお店らしい。

頑張って調べたんだろうな。偉いぞ、青年。

君の頑張りが、

見ず知らずのおじさんの心まで温かくしてくれたよ。

ありがとう。


いつだって、どこにでも、

笑顔や幸せの種はきっと落ちてる。

見つけようと思えば、すぐに見つかる。

不安も悲しい事もあるだろうけど、

大丈夫。


私達は一人じゃなくて、

きっと他人同士でもどこかつながって生きてる。

喜びや温かさは、伝わる。

見失いそうになったら、教えてもらえたりもする。

だから、大丈夫だよ。


そう自分に言い聞かせながら、

自分も、誰かが迷った時ヒントを出してあげられるような人間になれたらいいなと、

ちっぽけな、だけど個人的には大切な願いを浮かべる。

今夜は月も綺麗だ。いい日だった。


さぁ、明日から、また頑張れそうだ。






折り返し運転につづく。



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塾という場所が好きです。生徒の成長する姿を見るのが好きです。生徒や保護者と未来の話をするのが好きです。合格や目標を達成して一緒に喜ぶのが好きです。講師と語り合うのが好きです。教材とにらめっこするのも好きです。新しい人と出会うのも好きです。藤沢の街が好きです。ブログも、好きです。

勉強犬

「第二の家」学習アドバイザー。
世界中に「第二の家」=「子どもたちの居場所であり未来を生きる力を育てる場所」を作ろうと画策中。元広告営業犬。学生時代は個別指導塾の講師。大手個別指導塾の教室長(神奈川No,1の教室に!)・エリアマネージャーを経て、2015年ネット上で「第二の家」HOME個別指導塾を開設。2019年藤沢にHOME個別指導塾リアル教室を開校。