「先生よりわかりやすいじゃん」
きっと発した本人からしたら、ほとんど何も考えず、勉強を教えてもらった御礼代わりのなんてことはない言葉だったのだろう。
でも、そんな高校の同級生の言葉に、僕はまんまと乗せられた。
「人になにか教えるって面白いなぁ。そ、それにほんのちょっとうまくできているみたいだし」
今思えば、最初のきっかけはこんなところだったのかもしれない。僕はそこで、人に教えることの楽しさを知った。それにほんのちょっとだけ、それがうまくやれる自信を得たのだ。
ちょうどその頃、身内が学校へ行かなくなった。
当時は不登校なんて言葉はなくて、その行為には登校拒否という名前がついた。
周りが心配に暮れる中、うちの両親は割と「あなたの人生だし、好きなようにすれば良いんじゃない」というタイプだったように思うけど、もしかしたら今ほどその行為が認められる世の中ではなかったから、それなりに苦労はあったかもしれない。
でも、記憶をいくらたどっても、家の中に悲観的な空気はなかった。
それに、そんな状況でも本人は、カウンセリングに行っては週刊少年ジャンプの話をして楽しんで帰ってきて、塾へもちゃんと行っていた。
それを見ていた僕は、「カウンセラーってすごいな。塾ってすごいな」と思った。
そしてほんのちょっとだけ、「お仕事でジャンプの話ができるって、それいいな」と思った。うん、ほんのちょっとだけね。
かくして、僕は臨床心理カウンセラーを目指して大学で勉学に励み、同時に地元の塾でお仕事を始めることとなった。余談だけど、その身内は今もHAPPYに暮らしてる。安心して欲しい。
「社会に出たほうが絶対にいい」
カウンセラーの道(大学院)に進むか、塾の道に進むか迷っていた僕は、二つの道の恩師とも呼べる人にそのことを相談した。帰ってきた答えは、二人とも一緒だった。
「社会に出て多くのことを学びなさい。それが、その先の人生でかならず役に立つから」
今思えば、「あなたは喋りすぎるからカウンセラーは向かないよ」や「今のままじゃ塾の先生は難しいよ」というニュアンスが隠されていたのかもしれないが、誰も幸せにならない深読みはやめておこう。とにかく、僕はそんなアドバイスを参考にして、就職活動の荒波に揉まれることとなった。
ところがどっこい。幸い面接は得意だった。荒波どころか、波の上でサーフィンしているような就職活動だった。僕は「社会を見るお仕事」=「まぁ、営業ってやつだろう」という謎の方程式を自分で勝手に立て、求人広告の営業マンの世界へ飛び込むこととなった。あさはかである。
営業活動は過酷だった。いや、過酷だと思った記憶はないのだけど、今の職場の同僚や生徒に話すと引かれるから、それなりに過酷だったのだろう。飛び込みで名刺をもらったり、ひたすら電話かけをしたり、怖い事務所で軟禁されたり、灰皿を投げられたりした。周りの人に恵まれて、お客様にも恵まれて、楽しい営業生活ではあったが、だんだんと「僕の人生これでいいんだっけ?」という思いが強くなってきた。
入ってすぐに、リーマンショックがやってきたことも大きかったかもしれない。会社の経営が厳しくなって、辞める同期もいた。社会の厳しさと、残酷さと、無情さを知った。楽しいばかりじゃダメだ。数字も、利益も、生きていくためには大事だと学んだ。あと、「自分ってサラリーマンに向いてないな」ってこともついでに学べた。
そんなわけで、僕は仕事を辞めることを決めた。やっぱり塾だ。僕は塾がやりたい。そんな想いに引っ張られるようにして、僕は転職活動を始めた。営業マン的にはリクナビNEXTがオススメだったが、個人的にオススメだったエージェントに登録をした。そして何かの間違いだと思うが、登録した次の日に退職申し出を伝えた。何で間違えたんだろう。次も決まってないのに、僕は会社を辞めた。
社長からは「知り合いの塾があるから見ておいで」等、いろいろご助言をいただいた。上司や同期、後輩やお客様からも嬉しいお言葉をいただいた。営業として働いた3年間。あの経験がなかったら、今の僕はいないと断言できる。そんな日々を過ごさせてもらったことは、感謝しても感謝しきれない。しきれないから、あんまり言わないけど、ちゃんと思っているよとここに記して、さり気なく好感度を上げておこう。
格好良く言えば、背水の陣にて、自分を雇ってくれる塾探しが始まった。うん、逃げ道は自分が勝手になくしたのだけれど。
自分のお客様にも塾の会社があったが、僕は色んな所を見て、自由度が高く、なるべく好きなようにやらせてくれるところを選びたかった。そして、今の会社に出会った。
面接をしてくれた方がとっても良い人で、僕は会社の面接というのを忘れて「いつか自分で塾をやりたいんです」と話した。これから入る会社の面接でそれを言う馬鹿者を、この会社は拾ってくれた。
そして、数ヶ月間の研修を経て、僕は神奈川県のとある教室の教室長になった。
僕が目指したのは、誰もにとっての「第二の家」。
勉強が得意な子も、苦手な子も、学校が大好きな子も、学校に行ってない子も、つまりどんな子にとっても、居場所になる場所。そして、あわよくば保護者の方々や講師のみんなにとっても「第二の家」になるような、素敵な教室。
そこには、とびきりの愛がある。もちろん、それによる厳しさも。「わかった!」や「できた!」や「よかった!」が溢れていて、子どもたちが「ああなりたい」って思えるようなカッコイイ大人がいて、笑顔と学びと成長が詰まっていて、しっかり目標達成を応援できる仕組みがあって、これからの未来でも役立つ、生きる力が育つ場所。そんな「第二の家」を創りたい。
そんな理想の赴くままに、僕は教室をどんどん変えていった。マスコットキャラクターを作ったり、メルマガを作ったり、月のお手紙を考えたり、図書館を作ったり、ブログを始めたり、土曜に特別講座を作ったり、オリジナルテキストを作ったり、イベントを設けたり。旧体制から見たら大きな改革だ。
もちろん、それをよく思わない講師たちもいた。実は僕の前の教室長は、すごく温厚でやさしい方で、講師たちにすごく慕われていた。そんな教室長が作ってきた教室を、いきなり来た若造が次から次へと勝手に変えていったのだから、たしかにその心中は察して余りある。
そしてとうとうその講師たちは僕に隠れてボイコットを計画した。僕も後から知った衝撃の事実である。当時知らなくてよかった。心折れるところであった。と、本人たちの前で今もよくいじる。
しかし、すんでのところでボイコットは回避された。理由は簡単。単純に仲良くなったのだ。やっぱり人と人は困ったら話し合うべきだ。そこで、「すべては生徒のために」という方向性が同じことをお互いが理解し、僕らは手を組んだ。
「第二の家」をつくる素敵な仲間が増えた。「うるさいやつが来た」と最初はボイコットも企てられたけど、今じゃそのボイコット未遂メンバーが友人兼仕事の右腕や奥さんなのだから、人生とは不思議なものだ。
でも、今だからこそ、自信を持って言える。彼らがいてくれたから、僕はここまでやってこれた。それは間違いない。やっぱり感謝してもしきれない。人生はしきれないことばっかりだ。彼らのおかげで、僕は教室長になれた。
そこからの日々は、僕の宝物だ。素敵な生徒たちや保護者の方々に囲まれて、素晴らしい仲間たちとの出会いを経て、困難や辛い経験は糧にして、今僕はここにいる。
面接のときにも何度も訊かれたけれど、「あなたの長所はなんですか?」と言われたら、僕は「人の運がいいことです」と言う。だって、事実だ。本当に、人の出会いに恵まれた。
出会えた人たちのおかげで、今僕はここにいる。いつか恩返ししなくちゃ。
今回、まとめシリーズを続けてきて、「たまには過去を振り返るのも悪くないな」って思えたから、最後の最後に、今までの自分へ向けて言葉を贈りたいと思う。これが本当の自分事だけど、ここまで読んでくれた読者のあなたのことだ、きっと惰性で読んでくれるに違いない。
さぁ、あの時の自分へ。
高校生のときの自分へ。あの時面白いって思ったことを、今君はお仕事にできてるよ。毎日さ、心から楽しめてるよ。良かったね。
塾ってすごいなって思った自分へ。その直感は、決して間違ってなかったよ。そうそう、ジャンプの話もね、実は今だって意外とできてるよ。
社会に出ることを決めた自分へ。振り返ってみれば、そう決断してよかったと胸を張って言えるよ。その世界を見たからこそ、子どもたちに伝えられることがやっぱり沢山あったから。
会社を辞めた自分へ。不安だったろうけど、その先の道でさ、天職と呼べる仕事にちゃんと巡り会えたよ。もうすぐ出会えるから、安心していいからね。
ボイコットをされそうになった自分へ。あの頃できた大切な仲間は、今もずっと大切なまま、それに新しい仲間もたくさん増えたよ。
みんなでさ、子どもたちにとってのカッコイイ大人目指して、最高の教室目指して、頑張ってるよ。
「先生よりわかりやすいじゃん」
今だって僕は、教えた誰かにそう言われたくて、日々日々腕を磨いている。どうやったらわかりやすいかな、どうしたら楽しいかな、どう伝えたら刺さるかな、どうがいいだろうと、毎日考えている。
もちろん授業だけじゃなくて、もっともっともっと素晴らしい「第二の家」を創るために、毎日ワクワクしながら、名前通りさ、勉強を続けているよ。
目の前のあなたのために。すべての子どもたちのために。子どもたちとはつまり未来のことだから、ひいては、なんだか大袈裟だけど、世界の未来のために。
僕は、今日もここで、教室長をしています。
まとめ、おしまい。
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
まとめシリーズもこれにておしまいです。長々とお付き合い、ありがとうございました。
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