先日ある講師にダンスを教えてもらった。
僕は身体を動かすことは好きなのだけれど、ダンスはうまくない。何度かお願いしてあるバンドのライブにダンサーとして参加したことはあるけれど、あとでビデオを見たら、思っていたのとだいぶ違っていた。
そんななんちゃってダンサーである僕が、今回は講師の協力を得てEXILEの「Rising Sun」に挑戦することとなった。選曲に今更感が半端ないが気にしないで欲しい。
ちなみに、その歌はこれだ。
本日は、そんなチャレンジの瞬間に感じた僕の気持ちがテーマである。身をもって学んだので、どうか生徒たちにも参考にして欲しい。
まずダンスを練習した結果を一言で言おう。
早すぎて踊れない。
ダンスが趣味の講師が丁寧に教えてくれて、僕も頭では動きを理解したのだが、いざやってみるとうまくいかない。
ここで僕は、よく生徒たちに言っているあの言葉を思い出した。
「わかるとできるは違うよ!」
その通りだと思うので、もう一回言おう。
「わかるとできるは違うよ!」
そう、「わかる」と「できる」はやっぱり別物なのだ。
そのことについて、もう少し考えてみよう。
「わかる」と「できる」は違う
自分ひとりで何かをしているときの「わかる」と「できる」は、似ていることが多い。
例えば、職場から自宅への道なら「わかる」し、実際に帰ることが「できる」。
料理に慣れた人なら「この調味料入れたらこんな味になるよな」と「わかる」し、そして実際その通りの料理が「できる」。
ダンサーなら振りが「わかる」し、その通り身体を動かすことが「できる」。
注意しなくちゃいけないのは、誰かに聞いたり何かを見たりして「わかった」ときだ。ここで「わかる」だけでなくて「できる」気になってしまうと、いざ本番という時に痛い目をみることが多い。
人から道を聞いて「わかった!」となっても、実際行けるかどうかは別だ。
クッキング本を見て「わかった!」となっても、その料理が美味しく作れるわけではない。
ダンスもそうだし、勉強だってそうだよね。
「わかった」=「できる」ではない。
でも、多くの場合、人はそれを「できる」としてしまう。ただの「わかった」なのに「できる」と勘違いしちゃう。
ねぇねぇ、生徒のあなたにも思い当たる節があるでしょう。
「よーし、わかった」となった問題が、いざやろうとしたら「できない」。参考書を見たり先生に聞いたりして「わかった」のに、テストになったら「できない」。
それは、あなたが悪いんじゃない。あなたが馬鹿だからでも、あなたに能力がないわけでも決してない。それに落ち込むことでもない。だって、当たり前のことなんだから。
それが起こるのは多くの場合、「わかる」と「できる」の勘違いが原因だ。
その勘違いに気付ければ、そんな恐ろしい現象を減らすことができる。
わかった気になって地図もなくドライブに出かけることもないし、
できる気になって料理を作って食べ物を粗末にすることもないし、
僕が調子に乗ったままEXILEのライブに出ることもない。それは元々ない。
そして、あなたの頭の中がテスト中に真っ白になることもない。
すべては「わかった」と「できる」の勘違いが原因だ。
課題さえ分かれば、解決策は簡単。
今回のこの勘違いも、どうやってなくせばいいかの答えは実に簡単で明確である。
「わかる」を「できる」にするには、繰り返すしかない。
もちろん最初は失敗するだろう。一回目や二回目は、自身の勘違いに気づくはずだ。道に迷ったり、失敗作に出会ったり、踊れなかったり、問題が解けなかったり。「できる」がただの「わかった」もしくは「わかってもなかった」だったことに気付くはずだ。
解決策はその先にある。何回地図を見てもいい。何回調べてもいい。何回聞いてもいいし、何回踊ってもいい。
三回四回五回…何度も何度も「わかった」を積み上げていくと、その先にとびきり素敵な出会いが待っている。何回目かの挑戦の向こうに、最初の「できた」が、手を広げてあなたを待っているのだ。
初めての「できた」に出会えたら、歓喜の声と拍手で迎えよう。胸を張っていい。誇っていい。それは紛れもなく疑いもなく、君だけの「できた」だ。誰がなんと言おうと、君だけのものだ。
そして、折角だから、あなたが出会えた「できた」を、大切にしよう。
最初の「できた」は、また同じことをやってみて新しい「できた」に出会う度に、強く美しい「できた」に成長していく。
ある程度成長が進むと、「できる」は進化し、「もっと簡単にできる」や「早くできる」になっていく。
例えば、九九なんかはもうあなたの中でだいぶ進化しているでしょ。
それが「わかった」「できた」の繰り返しの効果だ。すぐ思い出せてすぐ使える知識。説明できて応用もできる武器。それはあなたが生きていく上でとても頼もしい味方になるだろう。
まとめよう。
「わかった」→(繰り返し)→「できた」→(繰り返し)→「もっとできる」
このプロセスを忘れなければ、勘違いで失敗することは自然に減っていく。つまり、目標達成しやすくなるってことだ。
「わかった」と「できた」は別物で、どっちもとっても大事。
そのことを意識して、学びを進めよう。
ぜひ参考にして欲しい。
「できる」を先に手に入れると…
言いたいことは言い切ったのだけれど、折角だから勉強のことについてもう少し。
「わかる」と「できる」の違いについて説明したから、ここでそれに付随した個人的な見解を一つ付け加えておきたい。
一部の小学校や塾などで、速さを「はじき」、割合を「くもわ」で教えること、あるよね。いわゆる指導の際のテクニックというものだ。
他にも、テスト前に過去問を使ったり、「これはこう」で答えの出し方を教えたり、そういった例を挙げていけば枚挙に暇はないけれど、また長くなってしまうからそれについて語るのはまた次の機会にしよう。
とにかく、長い勉強人生の中で、本質を飛ばしてテクニックで「できる」を手に入れることはある。
これは便利になりすぎた世の中にも通じることがある。今の時代、リモコン一つで電気をつけることは簡単だけれど、なぜ電気がつくのかを説明できる子どもは少ない。
「わかる」と「できる」。本質とテクニック。よく塾の先生たちともそれらの違いや使い方について話をすることがあるけれど、ここでそれが良いとか悪いとか言うつもりはない。
僕も割と本質を突き詰めるのが好きな人間(犬)なのだけれど(そういう人間はよく面倒くさいと言われる)、「わかる」までいく心の力がない生徒に「できる(テクニック)」から入って、本人の中に受け皿ができたその後に「わかる(本質)」を伝えることもある。順番を変える感じ。
要は本質もテクニックもそれ自体が良いか悪いかと言うよりは、使い方が大事だということだ。
最後に、「わかる」のない「できる」が続くとどうなるかについて触れておこう。
つまり、テクニックばかりで学びを続けていった場合ということだ。そこには大きな危険性が潜む。
「わかる」がない「できる」は、もろい。応用も利かないし、説明もできないし、楽だから癖になりやすい。
それが癖になると、本質を無視するようになる。面倒くさいから。時間かかるから。大変だから。「なぜ?」を考えず、能動的に動かず、学力や考える力の低下につながる。
もっと将来の話をすれば、騙されやすくなったり、コミュニケーションが苦手だったり、信用されにくい大人になってしまう。
そして、何よりそれは、「わかる」が本来持っている楽しみを見失わせる。「わかる」が持っている楽しみ、それはつまり学ぶ楽しみのことだ。知識を得るって、本当はとっても楽しいこと。それを見失ったら、勉強はどんどん楽しくなくなっていく。
「わかる」喜びは、学びを深めていく。僕は生徒たちの「わかった」顔が好きだ。きっと彼らも自分の「わかった」が大好きだろう。「わかる」は中毒性が強くて、とてつもなく大きなエネルギーの源になる。それを見失ったら、勉強はどんどん辛くなる。
ちなみに、「できる」喜びは、自己効力感を高め能動的な行動につながる。「できる」を増やせば、手や足が動きやすくなる。
ね、どっちかだけじゃない。どっちも大事なんだ。
というわけで、長くなりましたが、本日は僕がダンスの練習で感じた「わかる」と「できる」はどっちも大事、というお話でした。
「だ、である」調で書いたからちょっと強めの意見が目立ちますが、あくまで僕の個人的な意見であることをご了承くださいませ。
おしまい。
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
「わかる」と「できる」を書きすぎてゲシュタルト崩壊しそうになる。
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